| ポドルスキの笑わない2ゴールに思う |
ワールドカップよりハイレベルと言われる、国際サッカー大会「ユーロ2008」(2008年ヨーロッパ選手権)がオーストリア・スイス共同開催で始まりました。 ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサートでも団員が国旗を振る等してアピールしていましたね。
今日(6月8日)、ドイツ対ポーランドの一戦をWOWOWで見ました。 ドイツがポドルスキの2ゴールで勝ったのですが、このポドルスキという選手は実はポーランド生まれなのでそうです。 よく知られているとおり両国は経済的あるいは政治的に長く濃厚な歴史を抱えています。 ポドルスキも主に経済的事情からドイツで育ち、ドイツ人として生きてドイツ代表チームに入ったのでしょう。 今回、ドイツ代表の一員として母国ポーランドに弓を引く結果になってしまったことについてははかなりの葛藤があったようで、また両国のファンたちの間でも話題となり、あるいは議論を呼んでいたと聞きます。 ジーコ監督や三都主アレサンドロ(アレックス)がブラジル代表と戦うのと似ているようではありますが、小国ポーランドが歴史的にも因縁の深い隣国にして大国のドイツに挑むという、一人の人材も労力も犠牲にできないような状況とはやはり同じとは見なせないでしょう。 ユーロという大舞台での見事なゴールにも関わらず、決めたポドルスキの顔に笑顔は見られませんでした。 自身の複雑な思いの他にも、サポーターへの配慮もあるのでしょう。 一般大衆の口とは容赦のないもので、歴史的・経済的背景等は考えもせずに、容赦なく裏切り者呼ばわりするような人もいるものです。 そんな中、試合後の両国の選手の振る舞いには立派なものがありました。 もともとポドルスキとポーランド代表選手たちとの間には親密なものがあるようですが、選手の一人がポドルスキとユニフォームを交換し、それをポドルスキが着てサポーターたちの喝采に応えたのです。 試合後に健闘を讃え合うのによく見られるシーンではありますが、ポーランドの選手はそれに加えて、心ないサポーターからの攻撃からポドルスキを守ってやろうという気持ちもあったのではないかと思われます。 ポーランドのユニフォームをかぶったとき、この日初めて彼の本当の笑顔が見られたように感じられました。 ヨーロッパの、それぞれの国家や地域が持つ誇りと、それを良い意味で超越しようという一体感、その両方を象徴するような、なかなかいいシーンだったと思います。
現在、経済的要因から、ヨーロッパに限らず人的な流動性が高まっています。 仕事を求めて経済的に豊かな地域に労働力が流れ込む、というのは従来から普通に見られたことですが、優れた人材だけを選別して入国させようという傾向が最近では顕著です。 サッカーを見ていても、ドイツにおけるポーランド系、スイスやドイツにおけるトルコ系、フランスやイギリスにおけるアフリカ系など枚挙にいとまがありませんし、ポーランドにおいてさえブラジル出身の選手を法を曲げてまで早期に帰化させて代表入りさせていたりします。 2世として育った選手だけでなく、才能ある選手を少年のうちから各クラブチームが世界中から探し出して来て、自国で育てて高く売ろうとしたりするケースも増えてきました。 今後も母国に弓を引かざるを得ず、活躍しても心からは笑うことのできない選手が増えてくることでしょう。 それでも逆にあくまでスポーツとして、すばらしいプレーには国家の枠などを超えて喝采できるようになったらいいなと、この試合を見て思った次第であります。 代表チームのユニフォームの重みなど、なりゆきで言わば便宜上このチームに入って試合に出ているに過ぎないんです、というくらいの、もっと軽いものであっていいのではないかと。 その意味ではオリンピックのような、国家を挙げて選手団を組織して送り込むようなあり方も、あまり極端にならないようにしないと、政治的経済的に利用されてしまうケースが多くなるでしょう。(すでに利用されまくっていると言うべきかも。) 団体競技はともかく、個人競技等はもっと、いい意味でバラバラに、国ごとの枠にとらわれない運営方法があるように思われるのですが…。 ま、大会の雰囲気を盛り上げて、経済的な(興行上の)成功を得るためには、大衆のナショナリズム的心情に訴えるのがなによりなのでしょうけど。 なにしろ、そういった心情があるからこそ、私ですら今日のポドルスキやポーランドの選手たちを見て大いに感ずるところがあり、記事を書く気にさせたわけですから。
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| 楽器を楽しもう〜ファゴット(バスーン)〜 |
飄々とした、あるいはちょっとトボけた感じのお茶目な音色。 バズーカ砲のような構えで、まさにその砲口からポクポクと語りかけてきます。 結構個性的な楽器だと思うのですが、それでいてオーケストラ曲でこの楽器を欠く曲はないと言っていいくらい、古くからクラシックの世界ではメジャーな存在です。
最近、小椋佳の歌声を聴いたとき、ファゴットの音とそっくりだな、と思いました。  訥々と語りかける感じが似ているのかな。
室内楽でもしばしば使われるファゴットですが、クラリネットとの相性がとくによいようで、オクターブ・ユニゾン(同じ旋律をオクターブ違いで演奏する)でよく使われます。 七重奏曲や八重奏曲といった大型の室内楽曲や、木管五重奏曲、そしてハルモニームジーク(オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各2)の常連でもあります。 ベートーヴェンの七重奏曲、シューベルトの八重奏曲、モーツァルトのセレナード(第10〜12番)などが有名ですね。
協奏曲ならなんといってもモーツァルトが有名ですが、リヒャルト・シュトラウスの小協奏曲(クラリネットとファゴットのための)も知られざる名曲で、私としては大いに薦めます。 
 
また、珍しいところではファゴット四重奏(1本はコントラファゴットでしょう)もあります。 Caliban Quartetによる録音を見つけました。  ビル・ダグラスの「Jewel」が印象的です。 ビル・ダグラス自身ファゴットを吹く人なせいか、この楽器の魅力を熟知した美しい作品をたくさん書いています。
大型の楽器で値も張ると思われ、あまりアマチュアで演奏する人は少ないのかと思っていましたが、オーケストラ標準装備の楽器であるせいか、意外に吹く方はいらっしゃるようです。 クラリネット、とくにドイツ管の私としては、いい相方に出会えるといいな、と思っています。 (「いい」というのは実力が近いという意味ですね、ここでは。あまりうまい方だと、こちらが申し訳ないですから。さみしい話だな。)
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| モーツァルトの死は必然だったのか |
モーツァルトの夭折について語るとき、ほとんどの場合、その死は宿命的であったかのように扱われます。 音楽学者や歴史学者の場合はそうでもないのですが、エッセイストや劇作家、あるいは文学者の手になる作品の中では特に顕著です。 曰く、幼少の頃から欧州各地を旅行して回ったのが彼の肉体の成長の障りとなった… ウィーンで一本立ちした頃に比べて人気が凋落し、失意のうちに人生への執着も無くした… だから最後の作品群には死の影が射し、澄み切った諦観が漂っている… あるいは、宮廷や貴族社会における彼のライバルによって暗殺された… 実際、作曲家の中でモーツァルトの生涯ほど劇的で、まさに「太く短く」を地で行ったようなものはありませんので、これを題材に何か書こうと思えば上記のような話になってしまうのも無理からぬところではあります。 そしてそれを読む現代の私たちにとっても、彼の残したあまりに素晴らしい音楽とともにその生涯に思いを致すには確かにこの方が都合がいいかもしれません。 しかしながら、一人の人の人生の記録といえども、ことは歴史であります。 希薄な根拠でねじ曲げて許されることではないと思うのであります。 事実は、病気になってしまったところ、そのまま亡くなってしまった…のかもしれないのです。 この時代にあっては日常茶飯な人生のあり方であり、つまんないかもしれませんが十分に考えられることなのです。
昨年のNHK大河ドラマ「風林火山」を見ていて、最近のいわゆる歴史ドラマにおいて増しつつあるある傾向を強く感じずにはいられませんでした。 ドラマの中程で、板垣信方という重要なキャラ(武田家第一の武将)が戦死する場面があります。 史実では、武田信玄の若い頃の好敵手・村上義清との間で戦われた上田原の合戦で先鋒を務め、激戦の中で討死したということで、井上靖の原作や映画版においても至極あっさりと描かれています。 実際、戦国時代の合戦にあっては現代の戦争とは異なり、指揮官は最前線で見方の将兵を叱咤しながら危険に身をさらして戦っているので、どんな勇猛な武将でも討死のリスクは避けられないものだったでしょう。 しかし、今回のドラマでは板垣信方を史実以上に立派で強い重要人物として扱ったうえ、演じる俳優・千葉真一の最後の役だという位置づけも手伝って、「合戦で不運にも死んでしまいました」というわけにはいかなくなってしまったようです。 「討死=弱い」という印象がどうしてもついてくるからです。 そのため、死ぬ回の数回前から、「武田家がこの重要な決戦に勝つために犠牲になったのだった」という文脈のもとでストーリーが組み立てられ、戦死は覚悟のことだったかのように描かれ、最後は槍襖(やりぶすま)の中で敵を何十人も道連れにしながらの壮絶な戦死シーンになってしまいました。 映像作品としてのスペクタクルさは称賛すべきなのでしょう。 しかし、ここまでする必要が果たしてあるのかと思ってしまいます。 視聴者の方々は誰もが歴史学者ではありません。 中には歴史ドラマを歴史そのものと思っている人もいると言います。 豊臣秀吉は織田信長の草蛙をふところで温めたと思っているし、源義経はひらりと飛んで弁慶を屈服させたと思っている人たちです。(もっとも、映画「ラストサムライ」を見た人は、さすがに目が覚めたのでは…) ドラマとして面白くなくなっては元も子もないですが、今回はさすがにやりすぎだと思います。
実際は、彼は合戦で命を落とした、に過ぎないのです。 同じようにモーツァルトの最期も、病気であっけなく、だったのではないでしょうか。 ただし、どちらにしても確証のあることではありません。 結局のところ、この偉大で最も愛され続けるであろう作曲家の死をめぐっては、今後も論争が続くことでしょう。 論争が続いていくこと自体が、そのミステリアスな人気の証であり、後世の私たちにとっては、もしかするとモーツァルトという存在の真実そのものなのかもしれません。
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| ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサートを見た |
今年(2008年)のウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサートはジョルジュ・プレートルさんの指揮でした。 例によってアンコールの円舞曲「美しく青きドナウ」の前に指揮者の新年の挨拶が入りましたが、最近の傾向と異なって「あけましておめでとう」のみの簡潔なものでした。 このところ、世界平和を祈念する短いスピーチが入ることが多かったような印象があるので、逆に少し意外な感じがしましたが、本当はこれで十分なんだな、とも思いました。
平和を祈念する、これは大事なことではありますが、過去何十年、あるいはおおかた一世紀に亘って世界中で祈られて来たにもかかわらず、世界は平和になっていません。 ただ祈ったり、手をつないで行進したりするというのは、世界平和実現のためには実は有効な方法ではないのではないか、とも思えるほどです。 もちろんそういった運動がなければ、もっと悲惨な事態になっていたかもしれませんが。
「ブロークン・ウィンドウズ理論」というのがあります。 割れた窓を放置しておくと、その周りの窓も割られるようになり、状況はどんどん悪化していく、というものです。 たとえば街のたった一つの落書きを消さずにそのままにすると、いつのまにか街は落書きだらけになり、荒んだ光景が軽犯罪を生み、さらにその中から凶悪な犯罪も生まれていきます。 どんな凶悪事件もいきなり生まれることはないのです。 落書きのようなものを底辺に、その上に軽犯罪、さらにその上に凶悪犯罪、というようにピラミッドのような構造が生まれていく、というのです。 ピラミッドは底辺が小さくなれば、頂点が低くなる、つまりピラミッド自体が小さくなります。 軽犯罪を減らせば、さらには落書きを徹底的に消してしまえば凶悪犯罪も起こらないのではないか、というわけです。 ニューヨーク市の地下鉄の落書きと危険な治安状況はよく知られていました。 警察が必死に凶悪犯罪を取り締まってもなかなか効果は上がりませんでした。 ところが落書きを丁寧に消していったところ治安は多いに改善されたと言います。 ピラミッドが小さくなったのです。 この理論を実地に適用して成功した例として知られています。 以前、NHKの「ご近所の底力」でも街を挙げて落書きを消していく活動が紹介されていました。 実際、落書きのまったくない所に落書きをしたり、ゴミがまったくないところにゴミを捨てる、というのは心理的にかなり抵抗があるものです。
話は戻って、世界が平和にならないのはなぜなのでしょう。 われわれ市民一人ひとりの祈る気持ちや平和運動(デモのような)が足りないからでしょうか。 ちょっとうまくつながらないかもしれませんが、上に挙げた理論とそのピラミッド構造を考えてみましょう。 頂点が戦争・紛争、あるいはテロです。 これは相当巨大なピラミッドになりそうです。 中腹に来るのは民族、宗教、国家間の対立や反目でしょうか。 底辺に来るのは何でしょう? 様々な歴史的要因があるのは確かですが、より現代的視点で見れば経済的側面をクローズアップせざるを得ません。 端的に言えば、構造化された貧困、といったところでしょうか。 世界経済に否応なく巻き込まれ、単一の商品作物の生産を求められるがために常に食糧危機にさらされてしまう地域。 あるいは多数派の民族によって力ずくで住んでいた地域を追われ、貧困に喘ぐ人々。 これらの事態に追い込まれた人々が自力でそこから抜け出すことは尋常の方法では不可能です。 絶望からテロに走る人々も出てきます。 この底辺を小さくする努力をせずに、ただただ「テロ撲滅」「テロを許さない」「テロ対策」と叫んでみたところで、先に挙げた「落書きを消さずに凶悪犯だけを追いかける」のと同じで、解決にならないのではないか、と思えるのです。 生まれながらにしてテロリストという人など存在しません。 ピラミッドを小さくしていけばテロリストも初めから生まれ得ないのではないかということです。
極端なことを言うと、隣国の国民を拉致するような国家も、貧困を解消してやれば存在し得なくなるのではないでしょうか。 こちらの国民感情としては経済制裁をしたいところですが、これではますます相手を貧困にしてしまいます。 むしろ相手が驚くほど(嫌がるほど?)大量の物資を送って支援してやり、自力で食糧や商品を生産できるようにしてあげるというのはどうでしょう。 隣国の国民を拉致、それも国家が自ら行うという行為は相当すごいピラミッドの頂点です。 それでも底辺さえ削ってやればそんな行為にまでは至らないと思えるです。 もっとも、このような方策を実行に移すには国民の理解を得にくく、政治的には恐ろしく困難だとは思いますが。
おっと、いったいここは何のブログなのでしょう。 本当はニュー・イヤー・コンサートのNHKの放送でゲストの黒柳徹子さんが「いつもヨーゼフ・シュトラウスがたくさん混じっていて残念だったけど、今年はヨハン・シュトラウスが多くて嬉しい」と言っていたのを非難しようと思っていたのに。(となりにいた堀内修さんが「本当はヨーゼフの方が才能があった、と言う人もいます」とフォローしていました。) ともあれ、ときどき変に硬派になるヨハン・ミズヴィッチは今年も元気であります。
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| 主題曲について語らせろシリーズ〜アニメ「山ねずみロッキーチャック」〜 |
年齢が2、3歳違っただけでまるで話が合わなくなるという、幼少時に見た思い入れのあるアニメの話題。 「山ねずみロッキーチャック」と言って、いったい幾人の方がこの話題に立ち止まってくれることでしょうか。 世代がバレるとはまさにこのこと。 それでも現在NHKーBS2で再放送中(月〜木、12:30〜)ですので、ご存知の方も多いかもしれません。 1973年と言いますから、放映以来すでに34年になります。 北アメリカの自然を背景に愉快で呑気な動物キャラが活躍する人畜無害な作品で、子どもの教育上これほどふさわしいアニメもないのではないかと思います。 これを見せてさえいれば、健全な大人に成長することでしょう、私のように。 … ま、反論はコメントにでも書き込んでいただくこととして、うちの妻(2歳年下)は初めてこれを見ているところですが、いい年をしてこの心地の良いロッキーチャック・ワールドにすっかりはまりこんでいて、明日にでも「緑が森」に引っ越して「ひっそり松」の葉の陰で昼寝がしたいと思っているようです。
音楽の担当は宇野誠一郎(1927-)。 オープニング曲や劇伴ではトランペットを基調に用いていて、雄大な森の風を感じさせます。 印象的なのはエンディング曲の後半(歌詞が「なにがあるのかな…」に戻って来た部分)に現れる高音のストリングスによる対旋律です。 ヴォーカルをふっくらと包み込みながら曲を美しくまとめあげます。 私の幼い耳の中に入ったまま、ぼんやりと余韻として残っていたものが、最近聴くことができてようやく形として思い出すことができました。 こういうことって、嬉しくもあり、不思議でもあります。 主題歌というのは今ではやぼったいと考えられがちですが、ポップス曲とのタイアップものばかりの現代の作品ではこういった効用は期待できないと思われます。 ちょっと、不幸な気もします。 もっとも、34年後に懐かしがられるよりも、現在において最大の収益が挙げられる方がずっと重要なわけではありますが。 宇野誠一郎と言えば「ムーミン」や「一休さん」でも印象に残る曲を書いています。 「一休さん」のエンディング曲(「母上様…」)は名曲と言って差し支えないでしょう。 私の古い友人は、都会での一人暮らしを始めた時、初めて書いた姉への手紙にこの歌詞を「母上様」を「姉上様」に書き換えただけで丸ごと使ったそうです。 粋なことをするなあ、と思いながらも、ちょっと照れくさい気も。
なお、「ロッキーチャック」の声優陣は今から見ると驚くほど豪華です。 富山敬(きつねのレッド)、永井一郎(うさぎのピーター)、八代駿(かけすのサミー)、山田康雄(かわうそのジョー)などが脇を固めていて、セリフのやりとりだけでもなかなか聴きごたえがあります。 絵の印象は後の作品に比べるとうんと地味ではありますが、その分、音楽も含めて聴覚に訴える作品だったなあ、と今では感じられはしますね。 それにしても、富山敬って、ほんとにキツネ役の名人ですね。(後に「ニルスのふしぎな旅」でもきつねのレックスを演じています。ほとんどキャラが同じ…) 早世がほんとうに惜しまれます。
物語は冬ごもりで最終回を迎えます。 「また春が来たら、会おうね!」 ということだったのですが、最終回の意味がわからなかった(放送が永遠に続くものと認識していた)子どもの私は、哀れにもその後、毎週毎週テレビの前で待ち続けていたのでした。 「春」を34年も待つことになろうとは…。 翌週からは「アルプスの少女ハイジ」。 あまりにも有名な作品ですが、上記の理由で私は嫌いであります! 以降、「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」…と、二度と動物キャラものは作られず、舞台こそ北アメリカに戻ったことはありますが、あらいぐまのボビーはラスカルに変わってしまってました。
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| プロフィール |
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Author:ヨハン・ミズヴィッチ
クラシックファン。 でもジャズやロックも好き。 33歳にしてクラリネットを始める。 仲間の楽器に合わせて素人なりにパソコンで編曲するのが趣味、というか編曲魔かも。 演奏する人と聴く人との境界を限りなく曖昧にしていきたいという野望を秘かに抱いている模様。 好きなアーティスト:モーツァルト、ブラームス、エルンスト・オッテンザマー(ウィーン・フィルのクラリネット奏者)、トラヴィス(スコットランドのロックバンド)、小林武史(Mr.Children)、キース・ジャレット
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